「ひなまつり」は、女の子の心と身体が健やかに、美しく育つようにと願って行われてきた日本の伝統行事です。「上巳(じょうし)」の節句に、人形に厄を負わせて川や海に流すと、一年間無病息災でいられると平安時代に起こったのが行事の始まりです。
そのころ女の子たちの間では”ひいな遊び”という人形を使った遊びがありました。さらに、ワラや紙で飾った人形(ひとかた)に 厄や災いを移し、川や海へ流す”流し雛”このふたつが結びついて 「ひな祭り」となりました。 最初は「厄祓い」として行われていましたが、ひな人形が形を整えてくるにつれ、「お守り」として飾られるようになります。
(平安時代)3月の上の巳の日
「ひとがた」にけがれを移して、身代り「かたしろ」として流した行事
→「ひいな」お人形ごっこや、おままごとと混ざり、室内で飾る行事へ
※「源氏物語」須磨の巻で、光源氏が「かたしろ」を舟に乗せて流したエピソードがあります。
端午の「端」は初という意味で「午」は五と音が通じ、つまり初の五という意味です。従って大昔は5月に限らず毎月5日を端午と称しましたが、奈良時代5月5日の節会(せちえ)が重んじられるようになってから端午は5月に限る呼称となりました。
また、端午の節句は「ショウブの節句」とも呼ばれています。香りの高いショウブは、昔、邪気を払い疫病を除くといわれ、枕の下や湯舟に浮かべたりする習慣がありました。ショウブの形は刀に似ていることから子供が武士をまねて菖蒲刀(ショウブトウ)にしたり、「菖蒲」が「尚武」と通ずるということで武士の間では縁起のよいものとされていました。
この日は五月人形を飾り、ちまきや柏餅をそなえ、ショウブを軒にさし、庭先に鯉のぼりを立て、男児の智勇、すこやかな成長を祈ったのであります。
江戸時代には5月の節句に武家では、旗幟、挿物、吹流し等を飾り立てました。しかし、町家で立てることは許されなかったので、旗挿物の代りに鐘馗(しょうき)や武者絵を描いた幟を立てて、吹流しの代りには、鯉の形を吹貫きとすることを創案して、これを民家で立てました。鯉は出世の魚といわれ、勇気と成功の象徴とされています。鯉は、竜門の滝を登り竜となって天に昇るといわれ、俗に出世の場所を登竜門というのはそれから起こりました。
また、鯉のぼりには五色の「吹流し」をつけます。風や雲になぞられてあり、大空を泳ぐ鯉をいっそう引き立てています。青、赤、黄、白、黒の五色は五行(木火土金水)に例えられており、邪気を払うとされています。
五月の空に雄々しく舞う鯉のぼりは、五月人形とともに、端午の節句の主役になりつつなります。
江戸時代よりはじまった5つの式日(しきじつ)を五節句といいます。時代、階層、地方によって 、それぞれの文化がそこにはあります。家族や子供の健康を願う祓いの行事として親しまれております。